高野山研修(2日目)で感じたこと。
こんにちは。
水とフィルターのプロフェッショナル
家中まるごと浄水器®の小野志郎です。
開創1200年で活気づく高野山
と、毘沙門天王の総本山信貴山
(しぎさん)での研修に参加して
きました。
今日は2日目のレポート。
いよいよ高野山。
金剛峯寺の前で記念撮影。
高野山は、平安時代のはじめに弘法大師
によって、開かれた日本仏教の聖地。
「金剛峯寺」という名称は、弘法大師
が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』という
お経より名付けられたと伝えられ
ています。
高野山内にある117の寺院の総称
でもあります。
壇上伽藍(だんじょうがらん)は
弘法大師が真っ先に整備した場所。
真言密教の道場として中核となって
います。
金堂は、高野山御開創当時に建設
されたお堂で、講堂と呼ばれて
いました。
平安時代半ばから、高野山の
総本堂として重要な行事の
ほとんどはこの金堂で執り
行われています。
根本大塔は、真言密教の根本道場
におけるシンボルとして建立され
たので古来、根本大塔(こんぽん
だいとう)と呼んでいます。
多宝塔様式としては日本最初の
ものといわれ、本尊は胎蔵大日
如来、周りには金剛界の四仏
(しぶつ)が取り囲み、16本の
柱には堂本印象画伯の筆による
十六大菩薩(じゅうろくだい
ぼさつ)、四隅の壁には密教を
伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、
堂内そのものが立体の曼荼羅
(まんだら)として構成されています。
西塔は、根本大塔と二基一対と
なるような重要な多重塔。
六角経蔵は、鳥羽法皇の皇后で
あった美福門院が、鳥羽法皇の
菩提を弔うため、紺紙に金泥
(きんでい)で浄写された
一切経を納めるために建立され
た経蔵です。
経蔵の基壇(きだん)付近の
ところに把手がついており、
回すことができるようになって
います。
この部分は回転するように
できており、一回りすれば
一切経を一通り読誦した
功徳が得るといわれています。
もちろん、数人では回せません
ので多数の方の協力が必要と
なります。
私は、乗り遅れて回せなかった
のですが、仲間が再度集まって
くれて回せました。感謝です。
こちらは「三鈷の松」
弘法大師が唐より帰国される折、
明州の浜より真言密教をひろめる
にふさわしい場所を求めるため、
日本へ向けて三鈷杵(さんこしょう)
と呼ばれる法具を投げたところ、
たちまち紫雲(しうん)たなびき、
雲に乗って日本へ向けて飛んで
行きました。
後に弘法大師が高野近辺に
訪れたところ、狩人から夜な夜な
光を放つ松があるとのこと。
早速その松へ行ってみると、
そこには唐より投げた三鈷杵
が引っかかっており、弘法大師
はこの地こそ密教をひろめる
にふさわしい土地であると
決心されたそうです。
その松は三鈷杵と同じく
三葉の松であり、「三鈷の松」
としてまつられるようになりました。
弘法大師の右手にあるのが
三鈷杵(さんこしょう)です。
最後に奥之院へ。
奥之院は、高野山の信仰の中心
であり、弘法大師が御入定され
ている聖地です。
一の橋から御廟まで約2キロ
の道のりには、おおよそ20万基
を超える諸大名の墓石や、祈念碑、
慰霊碑の数々が樹齢千年に
及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。
水向け地蔵です。
玉川の清流を背にして金仏の
地藏菩薩や不動明王、観音菩薩
が並んでいらっしゃいます。
水を手向けさせていただきました。
この後、修行を続けていらっしゃる
弘法大師さまにお参りして帰路へ。
汗かき地蔵をお祀りしているお堂
の右側にある小さな井戸は
「姿見の井戸」と呼ばれ、
この井戸を覗きこんで自分の
顔が映らなければ三年以内に
死んでしまうと言われているの
だとか。
恐々覗き込んでみましたが
なんとか顔が映りました。
よかった〜〜
これで、参拝はすべて終了。
今回特に印象的だったのが
根本大塔の胎蔵大日如来像。
撮影禁止なので画像はあり
ませんが、近くにいるだけで
優しく包まれる感じがしました。
また、標高1000メートル近い
山の中にこれだけの都市を
形成されたことに驚きを隠せ
ません。
もし、現在の費用で建設したら
いくらかかるでしょうか。
国立競技場でも足元に及ばない
ことでしょう。
維持も大変だと思います。
今後1000年2000年維持して
いくためには何が必要なのか
日本人として考えていく必要
があると強く感じました。
私も微力ながらできることを
やっていきます。
仏教の本質は人を救済すること
です。
水で困っている方を
救済すること。
これが私に与えられた使命です。
使命をまっとうするよう今日から
仕事に戻ります。
それではまた。